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天明鋳物とは


天明鋳物の起こり

佐野は古くから鋳物の産地として知られ、当地で造られた美術工芸鋳物を総称して天明鋳物と云います。
 今から約1000年の昔、天慶三年に起こった平将門の乱を鎮め、唐沢城(現在唐沢山県立公園)の初代城主となった藤原秀郷公が、京から五名のすぐれた鋳物師を連れて来て、軍器等の鋳造にあたらせたのが天明鋳物の始まりと云われています。戦乱が終わって世の中が平和になると、佐野近辺(佐野庄)に住み着いた鋳物師達は、当時名工と云われた人達が先立ちとなって、日用品・仏具・湯釜の類を造りはじめたと云われています。

音に聞こえし天明鋳物(平安〜鎌倉〜室町時代)

平安から鎌倉時代にかけて天明鋳物師の数は年々増えて、作品も仏像・灯籠・装身具・鳴物など多種に亘り、更に室町時代に入って佐野は鋳物の街として全盛を極めます。鑞型鋳物の「梅竹文透釣灯籠」(国宝)や、茶の湯釜の「極楽寺釜瓢釜」(国宝)はこの時代を代表する作品です。特に茶の湯釜は九州の芦屋の釜と共に全国の茶人に愛好されたと云われております。他国の侵略もなく600年来の戦火をさけて名工が各地から集まってきた事と、代々の城主が鋳物の発展に意を用い援助を惜しまなかったことで、 関東の片田舎から技術水準の高い種々の鋳物が作り出されていきました。

発展する佐野の鋳物(江戸時代)

江戸時代、佐野には100件余りの鋳物屋と300人を超す鋳物師がおりました。この時代には多くの梵鐘が造られ、その中ではかの大阪夏の陣の原因となった京都方広寺が有名です。これは慶長19年に39名の天明鋳物師が上洛し、京都・江戸の鋳物師と共に鋳造に参加したもので、口径2.8メートル、重量56トンの巨鐘です。また日光東照宮にある徳川将軍家の霊廟である青銅鋳物の宝塔は、三代将軍家光から九代家重まで天明鋳物師椎名伊予守とその一族の製作です。

近代産業の発展と天明鋳物の衰退(明治〜大正時代)

近代産業の発展と機械化による鋳造法の変革により、作品と技術は変遷し天明鋳物の衰退していきました。文明化による需要の高まりと、輸送手システムの発達により佐野の鍋釜は高く評価されましたが、大正初期頃から関西方面の大量生産に押され販路は縮小し鋳物業者の数も激減しました。そして遂に生型による織物機械などの産業機械鋳物の生産に切替ざるを得なくなっていきました。

1000年の伝統を受け継いで(現在〜未来へ)

現在、天明鋳物の技術と伝統を受け継ぎ、美術工芸品の製作に専念している鋳物師は少ないのが現状です。しかしながら佐野青年美術鋳物研究会の発足や、若手作家による全国伝統工芸展へ入選など、その1000年の永い伝統はなお現在も活きています。私たち栗崎鋳工所もなお最新技術と科学的な研究とで、より多くの方々に天明鋳物を愛好していただくべく、作品の進歩に日夜余念なく努力しております。



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