
(佐野市植野町)
植野の大聖院というお寺の門の前に「高地蔵」とよばれるせの高いお地蔵様がたっています。このお地蔵様には、次のような話が伝わっています。
江戸時代という、侍の世の中のころのことです。天気がおかしく、日照りが続いたり大雨で洪水になったりして、お百しょうさんは作物がとれず、たいへん苦しみました。もっとこまったことは、どんなに作物がとれなくとも、おもい税を無理やり取られてしまうことでした。食べる米までも税として取り上げられることもしばしばあったそうです。
植野村あたりでも、この様子は同じでした。日照り続きで作物がかれたり、大雨で田や畑があらされました。それにもかかわらず、役人は、重い税を取り上げたといいます。
こまりはてた村人たちは、
「どうか、わたしたちを救ってください。代官様にお願いして、年貢をへらすようにしてください。そうしないと、このままでは生きてゆけません。」
と高橋惣左衛門の家にたのみに集まりました。惣左衛門は、村人からの信らいもあつい人だったので役人の代官様も、この人の話しにはこれまでも耳をかたむけるのでした。
「分かりました。みなさんからのおたのみは必ずはたしましょう。」
と、しばらく考えた末に、惣左衛門は答えました。
さっそく、惣左衛門は代官所へ行き、村人の生活の困っている様子をくわしく話しました。それに加えて、作物の取り入れ時になると、はんらんする佐野川(今の秋山川)の土手の工事も、お願いしました
熱心に話す惣左衛門に代官様も心動かされ、その願いを聞き入れてくれました。
ところがどうでしょう、何日たっても、佐野川の土手の工事は、始まりそうもありませんでした。
惣左衛門も毎日のように、代官様のところえいって話をするのですが、とりあってもらえませんでした。
たまりかねた惣左衛門は、
「よし、こうなれば自分がぎせいになろう」
と、決心すると、自分の家の中の物を売りはらい、自分で工事に取りかかりました。惣左衛門の心に打たれた村人たちも、いっしょうけんめい働きました。こうして、土手の工事は、予定より早く完成しました。
村人たちは、
「これで、こう水の心配もなくなるぞ。秋の豊作はまちがいなしだ。どれもこれも、惣左衛門さんの
おかげだ。」
と、喜び合いました。
ところが、その喜びもつかの間、とつぜん代官所の役人が、惣左衛門の家にふみこみ、惣左衛門とその家族をろうやに入れてしまったのです。代官所のゆるしをもらわないで、かってに工事をしたという理由からです。そして、よく調べもしないで、惣左衛門は、打ち首といって首をはねられ、殺されてしまいました。
自分の財産までなげだして、村人のためにはたらいた惣左衛門のくやしさはゆうまでもありません。村人もまた同じです。しかたなく村人たちは、惣左衛門のなきがらを手あつくほうむり、その霊をなぐさめました。
代官のこのような悪いやり方は、そのまますむわけもありません。とり調べで、代官はめし取られてしまいました。
村人は、さっそく惣左衛門の顔ににせたお地蔵さんをつくり、村の高いところにおまつりをしましたこれが、「高地蔵」です。
[解説]
「高地蔵」について
もともと村の高台(今の上台町)にあった高地蔵は、明治期に大聖院の門前に移されました。惣左衛門より寄付された田畑は、当時、村内四組に分割して名主の管理とされていました。
明治に入り、それらが、村の共有地となり、村人のため大変有益だったといわれています。
昭和に入り、これらを売買し、植野の公民館を建設し、現在に至るまで、惣左衛門の遺徳が及んでいるということは、すばらしいことです。
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(佐野市教育委員会「佐野の伝説民話集」より)
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