鯉が久保 

(佐野市赤見町町屋)

赤見町の町屋から駒場へこえる山坂に、鯉が二ひき、つれ立つような形をした石があります。ここを地元の人たちは鯉が久保とよび、山仕事に来ると、必ずこのあたりでひと休みをするので、その目印の場所として、だれもが知っていました。

 この町屋から駒場へこえる山は、円城院山とよばれ、昔、このあたりに夕日長者という大金持ちが住んでいたといいます。また、一方後山というところには朝日長者という夕日長者にもおとらない大金持ちが住んでいたといいます。

 二人は、このへんきっての大金持ちでしたから、何かにつけては競争をし、争いをしてきました。もちろん、二人は自分の持っている宝物が一番だと、いつもいい合っては競争していました。

 朝日長者には、鶴姫というそれは美しい娘がいました。夕日長者には、年ごろもちょうどいいむすこがいました。いつしか二人はおたがいに好きになり、結こんしたいと思うようになりました。

 しかし、親同士は、仲が悪く、いつもはり合っているあいだがらですから、とても結こんできそうにもありません。しょう来に希望を持てない娘は、とうとう川に身を投げてしまったのです。

「ああ、どうしてなのだ。」

 悲しみにくれる夕日長者のむすこも、思いなやんだ末、娘のあとを追って、同じ川のふちに身を投げてしまったのです。

 二人は、そのまま鯉となって、人の世の中では、ゆるされなかった結こんを龍神の国でやっとできることになりました。

 二ひきの鯉は、それはそれは仲がよく、いつもぴったりよりそって、楽しそうに泳いでいたそうです。しかし、その川も時がすぎると水がなくなり、陸になってしまったのです。それでも二人は、はなれずにぴったりよりそって、心を一つにしたまま石になってしまったといいます。今でも、この二人は円城院山から駒場へこえるひっそりとした山道のわきで、よりそっています。

 ところで、あれほど争っていた朝日長者と夕日長者の二人ですが、いとしい子どもをなくしたかなしみは同じです。仲よくよりそっておよぐ二ひきの鯉を見るにつけ、意地をはり合っていた自分たちの心のまずしさに気がつき、争うことをすっかりやめました。そればかりでなく、二人は、持っていた財さんのすべてを山にうめ、お坊さんになって、これまでのつみをつぐなう決心をしました。

 お坊さんになった二人は山の中に庵を建て仏様においのりを続けたそうです。その場所が今の寺久保だともいわれています。

[解説]

「鯉が久保」について

 この話は、栃木県連合教育会編「下野伝説集(四)「うるし千ばい・朱千ばい」」昭和三十七年には、長者伝説の話として「うるし千ばい・朱千ばい」の話の中に、掲載されています。小林晨悟著「下野の昔噺」昭和二十八年や「安蘇郡赤見村郷土地史」昭和七年などには、「鯉が久保」として、一つの独立した話としてあつかわれています。本文は、「下野の昔噺」を参考に、他の資料も加味して再構成しました。

 地元では、「鯉が久保」という地名がわずかに残る程度で、話の内容などはほとんど伝承されていませんでした。今回、二匹の鯉が仲睦まじくよりそった石を調査するにあたっては、志賀平蔵氏が協力して下さいました。あれた山道でしたが、この道が確かに一つの街道として使われた証拠に、鯉が久保からわずかに駒場よりの所に一基の庚申塔らしきものが建っていました。

なお、「下野伝説集」によれば、二人が身を投げたのは、出流川の鶴巻ケ渕であり、二人の親が出家し庵を結んだのは般若坊寺窪山浄楽寺であるとしています。「安蘇郡赤見村郷土地史」によれば、その浄楽寺は、田原藤五郎左京助高光という人の建立であると説いています。いずれも、根拠とした資料が不明のため、はっきりしたことはわかりませんが、参考として紹介しておきます。

                        (佐野市教育委員会「佐野の伝説民話集」より)

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