小林新八の話 

       (佐野市鐙塚町)

鐙塚町の小林信子さん宅の前に「犠牲献身」ときざまれた石ひが建っています。

これは、鐙塚の人たちのために命を投げだして、はたらいた小林新八という人のために建てられたものです。

 江戸時代という侍の世の中のころの話です。

 このあたりでは、昔からのならわしでやく神おくりというおまじないがおこなわれていました。村の中に悪い病気や悪いことをおこす神様を、村の外に送り出すためのおまじないなのです。昔は、村の中に悪い病気がはやるのは、このやく神がいるからだと考えられていましたから、このおまじないをしないと、たいへんなことになると、人々は信じていました。

 ちょうど、この年は、悪い病気が村の中にはやり出してきたのです。これでは困ると思った村人は、さっそく、やく神送りをすることにしました。

 たくさんの人が集まり、笛やたいこやかね、ほら貝などを打ち鳴らし、旗をたてて、行列をつくって、やく神を送り出そうとしました。鐙塚のすぐ東側は、昔は越名沼がありました。人びとは、舟に乗って、越名沼のさきの大田和あたりまでやく神を送って行くことにしました。

 ところが、越名沼の向う岸の西浦についたときです。そこの村人たちが、西浦の村の中を通ってはいけないといい出したのです。それも無理のない話で、西浦の人たちにとっても、悪い病気をはやらすやく神が、村の中を通るのはさし止めたいと思うのがふつうです。

「おれたちを通してくれ。」

「いや、通すわけにはゆかない。」

 こんなやりとりをしているあいだに・とうとう、大げんかになってしまいました。なぐり合いにまでなってしまったこのけんかの最後には、とうとう西浦の人が一人亡くなってしまいました。それでも決着がつきません。しかたなく、太平寺大中寺のお坊さんに、これをかい決してもらうことにして鐙塚、西浦の人はその場を別れることにしました。

 ところが、人が一人殺されてしまった西浦の人は、かわりに人質をだすよう鐙塚の人たちに強くせまりました。

 人質といっても、それは、相手の村人にいつ殺されてしまうかもしれないきけんがあるのです。

 「どうする。」

「だれが、人質になったらいいかなあ。」

相談はするものの、だれも、人質になることは、死ぬことだと思っていましたから、

「おれが行く。」

とはいいだしませんでした。

すると、小林新八という人が、

「わたしが、行きます。」

と、とつぜんいい出しました。この人は、今の長野県あたりの生まれで、わけがあって、小林家にしばらくおせわになっていたといいます。そのお礼にというつもりもあったのでしょう自分から、この村のために、人質となって西浦へ行くことをいいだしたのです。

おお、そうか。」

「そりゃ、村の者にとっては、ありがたいことだが、向うに行くと、いつ殺されてしまうかわからねえぞ。」

と、心配そうに村の人がいっても

「はい、わかっています。でも、わたしが、少しでも村のために役立つなら行きます。」

そのことばに村人は、たいへん感動し、こんなりっぱな心をもった人なのだから、なんとか、命だけは助けてやりたいと、だれしも思うのでした。

 このけんかの仲なおりは、大中寺のお坊さんにたのんだのですから、小林新八さんの命をぜひ助けてもらうように、村人は、とり急ぎ、お坊さんにお願いに行きました。

 このころの、世の中では、どんな罪をおかした人でも、えらいお坊さんの着ているけさという着物のそでで、かこわれると、その人にばつをあたえることはできないとされていました。鐙塚の人たちも、そのお坊さんの力をきたいしていたのてす。

 しかし、たいへん残念なことがおきてしまったのです。大中寺のお坊さんが、仲なおりの話し合いのため、西浦へ向かっていたのですが、お坊さんがとう着する前に小林新八さんは、ばつを受けて、命を落としてしまったのです。

 鐙塚の人たちの悲しみは、それはたいへんなものでした。村では、小林新八さんの勇気ある行いをほめたたえ、そして、新八さんのたましいをなぐさめるため、小さな神社を建てておまつりしました。

[解説]

「小林新八の話」について

この話は、鐙塚町小林信子さん宅の門前に建っている「犠牲献身」の碑文と地元に伝わる伝承をもとに構成したものです。越名沼があった頃の鐙塚村周辺の事情を適切に物語る素材です。

「虫送り」や「厄神送り」などの習俗は、かつての農村で、数多く行なわれたもので、県内でも、この事例を聞くことができます。かつての農民は、オラガムラの領域が、ある意味で、一つのユートピアであり、自給自足の生活を成り立たせる単位でもありました。従って、「虫送り」にしても「厄神送り」にしても、ムラにとって、よくないものは、ムラの外へ出してしまえば、それでよかったのです。しかし、となりのムラにとっては、それは大変迷惑であり、昔から、この話にあるようないざこざは、よく聞かれます。

 ともあれ、鐙塚村のために命をもかえりみない小林新八の心意気は、大変りっぱなもので、義民伝承の中では、ひときわ光る存在です。

                        (佐野市教育委員会「佐野の伝説民話集」より)

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