

(佐野市天神町)
唐沢山の城主、足利家綱侯はたいへん大きくりっぱな体格で、勇気のある武士でした。小野寺民部という人とともに、天皇の住む御所を守るため、京都にのぼっていました。仕事においては、何ごとも家綱の方がすぐれていたので、民部は家綱をねたましく思い、なんとかおとしいれてやろうと思いました。そして、ひそかに上の役人に家綱の悪口をいいました。それをすっかり信じた役人は、家綱をとらえ、九州に流してしまいました。
九州に流された家綱は、安楽寺という名前の住まいをあたえられました。じつは、ここは、その昔菅原道真という人が無実の罪で流された時に、住んだ家でした。家綱は、自分の身の上が、菅原道真と同じであることを思い、この人をおまつりした天満宮に、毎日のように、無実の罪がはれて、ふるさとへ帰れることをいのりました。
このころ、毎年、朝鮮の国からお使いが貢物を持ってやって来るならわしになっていました。ところが、この年に限り、三人の力士を連れてやって来ました。
そして、
「これまで、毎年、朝鮮から日本国へ貢物を持ってきたが、このたび、力くらべによって朝鮮のおすもうさんが負ければ、今まで通りにします。もし、日本のおすもうさんが負けたら、日本から朝鮮に貢物を送ることにしましょう。」
と、いうのです。
とつぜんの話なので、都では大さわぎになってしまいました。
三人の力士とは、じゃまん、がまん、がんまくという名前で、たいへんな力持ちといいます。四百キロもある大きな石を持上げると、それを地面にたたきつけ、石が土の中にうまってしまうほどの力もちだといいます。残念なことに、都には、この三人にかなう人がいないのです。
みんなが困ってしまいました。あれこれと考えた末、九州に流されている唐沢山城主家綱がそのこうほに上がりました。すぐに都によび出された家綱は、天皇から、朝鮮の力士とすもうを取るようにいわれました。
しかし、家綱は、
「この家綱、こきょうにいる時は、だれも相手にならないくらい強かったのですが、今は、島流しの身です。体の力もおとろえ、勝負をする気持ちもわいてきません。」
と、ことわるのです。
ふたたび、九州へもどった家綱のところへ天皇のお使いが来て、なんとしても、勝負をしてほしいとたのむのです。
この熱心なお願いに、家綱の心も動き
「ほかになければしかたがない、家綱、命にかけてもやってみましょう。」
と、決心した心の内を答えるのです。でも、そうはいうものの、家綱の心の中は不安でいっぱいでした。このすもうは、国の運命を決める大事な勝負です。もし、負けたら、切腹するつもりでした。そうした不安をなくすため、家綱は、天神様や仁王様に、ひたすら、おいのりをするのでした。
いよいよ、その勝負の日がやってきました。都の広場には、赤や白のまくがはりめぐらされ、見物する人たちでいっぱいでした。
やがて、西の方から、朝鮮の国のじゃまん、がまん、がんまくの登場です。東からは、日本の家綱がたった一人であらわれました。
ぎょうじの
「ただ今から、試合を始めます。」
のかけごえに、いっせいに見物人からはく手がおこりました。
すると、朝鮮の国の人たちは、日本から一人の力士しか出てこないのはおかしいと、
「日本から、あと二人の力士を出せ。」
と、いいました。
これをきいた家綱は、おこり、大声をはり上げ
「わたし一人で、この勝負は引き受けた。さあ、足でも、こしでも勝手に取れ、三人一度にかかってこい。」
と、いいました。あまりの大声に、三人の力士たちも、ちょっと出足がにぶったように見えましたが、家綱めがけ、三人一度に取り組みました。見物人は、息をのんでこれを見守りました。
すると家綱は、あっという間に三人を投とばし、気ぜつさせてしまいました。見物する人たちのわれるようなはく手がおこりました。天皇をはじめ、役人たちは、あまりに家綱が強いので、はく手をするのもわすれていました。
このお手がらに、家綱は、古里へ帰れることになり、天満宮と仁王さまを、いっしょに古里へおむかえすることができました。
これらが、今の朝日森天満宮と旗川の安楽寺の門に立つ仁王さまだといわれています。
[解説]
「怪力士家綱」について
朝日森天満宮は、もともと、唐沢山ろくの天神窪という所にあったといいます。それを現在の位置に移したといいます。
また、田沼町編集「田沼町史第一巻 自然・民俗編」昭和五十七年によれば、家綱は亡くなった後、田沼町山越の明菊山中の加茂別雷神社の傍らの岩窟に葬られ、岩倉大権現として祀られたといいます。
その後、この地方で相撲がある時には、必ず力士たちが明菊山へ登り、必勝を祈願したと言われています。
本文は、栃木県連合教育会編「下野伝説集(二)鬼怒の乙姫」昭和三十五年を参考にしました。
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(佐野市教育委員会「佐野の伝説民話集」より
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