「川俣事件」に関する講演を聞いてきました
2025年5月10日、群馬県館林市の館林市文化会館において、NPO法人田中正造記念館が主催した講演会に参加しました。講師は、足尾鉱毒事件に関する著作も出している國學院大學名誉教授の菅井益郎先生でした。参加者は約150人と多くの参加者が集まりました。
川俣事件(かわまたじけん)は、1900年2月13日、群馬県邑楽郡佐貫村川俣(現明和町)で、足尾銅山の鉱毒被害民が東京の政府に請願するために移動でした。この農民たちに対して警官隊や憲兵たちが暴力で弾圧した事件。当時は兇徒聚集事件(きょうとしゅうしゅうじけん)と呼ばれたそうです。農民68名が逮捕され、うち51名が起訴されましたが、1902年12月25日、仙台控訴審で起訴無効という判決が下り、実質的には全員不起訴という形で決着しました。理由は、「検事の書類不備による不受理」ということで、少しあっけない結末でしたが、当事者の被告の人たち、義憤にかられた弁護団、そして、支援をする人々の団結と奮闘があったからこそと思います。講師の分析では、政府は、裁判を続けることによって、国民世論を敵にまわすことを避けたい狙いがあったようです。
実は、川俣事件では、多くの負傷者がでました。怪我を負った住民の「血染めのシャツ」が残されています。通常は、栃木県の佐野市郷土博物館に収蔵され、普段は展示していないとのことでした。遺族の好意により、この講演会で公開されました。(公開は24年ぶりとのこと)私は、偶然にも本物を目の前で見ることができました。
今年は、川俣事件から125年の節目です。命をかけて自らの生業と自然を守るために立ち上がった先人たちを誇りに思うと同時に風化させてはいけないと思いました。と同時に今をふりかえってみると、どうしても原発問題にリンクしてしまうのです。当時、古河という企業は、鉱毒を防ぐことができず、地域の自然と人間の生活を奪ってしまいました。原発も再稼働すれば、処理のできない高レベル放射性廃棄物を増やし、ひとたび事故が起きれば住民の生活を奪うことになります。今日は、環境問題から目を背けては生きていけないことをあらためて感じる一日となりました。

