鯉沼九八郎翁の碑を訪れました。

2025年9月4日、鯉沼九八郎翁の碑を訪れました。
 鯉沼 九八郎(こいぬま くはちろう、1853年1月22日生まれ)は、栃木県の政治家で、自由民権運動家。「隻腕の加波山将軍」の異名で知られます。
 下野国都賀郡稲葉村(現・栃木県下都賀郡壬生町)の出身。壬生藩校に学んだ後、1882年に板垣退助らが結成した自由党に参加し、福島事件のすぐ後に栃木県大運動会(自由党弾圧に対する抗議運動で、一万数千人が参加した)の発起人になったことで全国に名を知られました。1884年、自由民権運動の弾圧者として著名であった栃木県令、三島通庸の暗殺計画に参加(加波山事件)。9月の新県庁の開庁式で爆殺することを目的として爆裂弾の作成を行いますが、9月12日午後に爆薬調製中の事故で左手首から先を失い、壬生町内の石崎病院へ運ばれました。
 加波山事件が失敗に終わった後、強盗殺人罪により起訴され、懲役15年の判決を受けました。この罪状および判決は、同事件が民権運動家による政治事件ではなく、爆裂弾を資金集めのための強盗目的と認定されたこと、および、怪我により事件の決起に直接の参加を行わなかったことによるものであったそうです。
なお、当事件で用いられた爆裂弾は、テロ爆弾としては日本史上初のものでありました。そのため、事件のすぐ後の1884年12月に爆発物取締罰則が制定されています。
 その後、1886年から1893年まで北海道空知監獄署にて服役。出所後、1899年から1911年まで栃木県県議会議員を務めました。1924年10月に死去、享年73。現在、出身地である栃木県下都賀郡壬生町上稲葉932に碑があり、壬生町稲葉地区公民館の敷地の中に建立されていました。
 このホームページは、田中正造を中心にとりあげておりますが、鯉沼九八郎も同じ時代を生きた義人といえると思います。県議会議員時代に足尾鉱毒事件に関わったという記録もあるようです。

2025年09月04日