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佐野について、ウンチク
新佐野市は、中世の時代に佐野市北部と田沼、葛生を合わせ佐野荘と呼ばれていた。
(1997年出版)東京堂出版の「日本荘園大辞典」によると、佐野荘として次ぎのように述べられている。
「安蘇郡の荘園。現、栃木県佐野市と葛生・田沼・岩舟町の一部を含む地域。創建年次は不詳であるが、安蘇郡司で開発領主の藤原姓足利家綱が、その所領を左大臣藤原頼長(よりなが)に寄進することによって成立したものと思われる」となっている。
資料によると、佐野市の堀米町より北は佐野と呼ばれていたが、堀米町の南の境よりも南部は、天の命と書いて天命と呼ばれていた。昔は、現在の佐野市役所の位置は佐野ではなく、天命だった。
佐野市の佐野と言う文字は、昔は狭い野という狭野をあてはめていたようです。昔の人が言う「野」とは、嵯峨野、吉野、熊野、武蔵野と言う地名が示すように、いずれも山ほとりの人里離れた場所を言っていました。そして「野」とは山と里のちょうど中間にあって、特別の意味を持っていた。
つまり山は神の領域、里は人の領域で、野はその中間の神と人との交差する地域のことで、嵯峨野、吉野、熊野などは仏教的な隠遁の地でもありました。「野」と言う言葉の中に神や仏たちへの畏敬の念が含まれていたようだ。
だから現在の田沼と葛生も山と里の中間であり三方を山に囲まれている地域であることから、中世において佐野と呼ばれていた。
今からちょうど400年前の1602年に、政治の拠点が唐沢山から春日岡(現在の城山)に移ったことにより天命も佐野の街と呼ばれるようになったようだ。しかし、正式に行政区域として佐野町となったのは明治初期の9年。
そして現在の旧市街地を含む地域、佐野の半分の地域が天命と呼ばれていたが、今では小学校名と小学校通学区域名及び天命鋳物に名前を留めている。
天の命と書いて天命と書いていたのが、天の明るいと書いて天明と書かれるようになったのは、1633年・寛永10年からとの事。
(安蘇史談会資料から引用)
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