2008.12.1 「幼稚園の庭」
2002年に園舎を建て替えたとき、園舎は学校の小さいものでなく、一般のお家よりも大きなものを作ろうと思いました。
そして園庭はグランドでなくやはり家のお庭のようなものがいいとも考えました。
以前は芝を貼りミニサッカー場を作るなどグランドに精を出した私ですが、年を取ったせいか今はとりわけ四季折々の庭はいいものだと思うようになっています。
遠足にイングリッシュ・ガーデンを訪れたり、お母さん方と一緒に球根の植え付けをしたり、幼稚園にはそんな庭があって欲しいと思うようになりました。
「ターシャの庭」なんて NHK の番組を視ると、あそこにそっくり呑竜幼稚園を持って行きたい気分になります。
日本の幼稚園の父と呼ばれる倉橋惣三先生はその書物の中で
「ねえ君、温室のように無理強いに咲かすのでもないし、といって勿論、野原のように野生のまま放任しておくのでもなし、
自然に生長して、自然に咲くべきものに、適当な培養を与えるのが君の仕事でしょう。つまり幼稚園なんだねえ」
と主人公の森の幼稚園の園長に語らせています。
もうお分かりかもしれませんが、咲かす花とは子ども達のことです。
どの子ども達にも自分で伸び行く資質があるということです。
そして幼稚園は温室でもなく、野生でもないそんな場所であると言っています。
適当な培養を与えること、それが幼稚園の先生の仕事であるわけです。
倉橋先生は「ガーデン主義」ということばを使っていますが、幼稚園というところがそのようなところを意味し、
故にフレーベルから「幼児の園」という命名を受けたことになんとなく納得しています。
朝当園した子ども達が四季の庭に遊ぶ姿を見るに付け、どうしたらこの子たちに「適当な培養」を与えられるかを考える今日この頃であります。
2008.11.1 「なぜ 子どもは表現するのか」
一言で言えば 楽しいからである
自分の行為が 形や線になって残る そのことが楽しいからである
それは人間の本能に近いものがある
障子に 指で穴を開けたり
雪に男の子ならおしっこをかけることを喜ぶ (跡をつけてやったぞ!の気持ち)
だから最初の落書きは点であり線である
子どもは腕が回るようになると 点や線が 円になる。 閉じた円になる。
3歳児が軽快な曲にあわせて 指絵の具でぐるぐる丸を描くのは楽しい
初夏の幼稚園にふさわしい光景である。
たくさんの迷子になったクレパスをクッキーの缶に入れ出してあげる。
いろんな色があるといい。そのこと自体楽しい。
余った何色ものクレパスを火にかけ混ぜて溶かすと特別な色もつくれるようだ。
微妙な色合いに触れさせることもできる。
そばに大きな薄い紙でもあれば子どもは描き出す。
厚での白い画用紙なんて出さないでよい。時には新聞紙でもいい。
その方が描くのに抵抗がすくない。いたずらでいい。
子どもに絵は苦手なんて言わさない。
そのために砂場に羊羹の薄い箱を持っていって砂をぎゅっと入れる
木の枝で線を引けばそこに絵が描ける。この絵には失敗なんてない。
砂をもう一度かけ手で固めればキャンバスは元どおりになる。
子ども達には楽しんで跡を残すことをたくさんさせたい。
自分で描いたという満足感を感じさせたい。
やったあとで「色が混ざって綺麗」「これ ○○みたい!」「おもしろい」
そんな言葉が聞ければいい。
表現なんて大仰なものを求めることはない
美しい秋の葉っぱを並べる中にも小さな表現の芽が見えるからである。
自由な気持ちの中で、何かを表わす心地よさを
子ども達の胸にプレゼントするのが幼稚園の先生の仕事である。
2008.10.1 「目利きになれるか」
宇都宮大学の付属幼稚園によく訪れる事があります。
副園長の高柳先生とはお話をする機会も多くいつもご指導いただいています。
大学の付属園は研究の仕事もあるため、園の内外の環境にも常にいろいろな創意工夫があるところです。
庭の遊具も高価な総合遊具がドンと置いてあると言うより、子どもが自分で工夫して動かして遊べるようなものも多くたいへん面白いと思います。
その中に 自転車のタイヤの古いチューブがありました。 このチューブは結構丈夫なものです。 まして自転車屋さんにお願いするとタダでもらえるわけです。
タダのものはその本来の用途ではもう使えないが、生かし方によっては、別の働きをする場合もあります。
つまり工夫しだいでは価値がでるのですが、その価値を多くの人が知らない(考えない)ので価格がつかない(タダ)なだけなのです。
この手のものには流行おくれになったボタン。大工さんの出した木っ端切れ。
使い古した鍋や釜などもありますし、古い黒電話などは骨董的な価値とあいまって貴重です。
しかし宇大付属園のような幼児の心性に添った創造性豊かな探求的価値基準をもっていないとただのガラクタでしかないわけです。
ここが大切なところなのです。いや見習わなくてはならないところです。
今回当園でもこのタイヤのチューブをしこたま仕入れました。いやタダで払い下げてもらったわけです。
球形の下に3本の足のあるジャングルジム、通称 「タコジム」 の足の部分に蜘蛛の巣のようにチューブを張りめぐらせ、
子ども達がそこに入ると蜘蛛に捕らえられたバッタのようになるというわけです。
ゴムですからブランブランと揺れるのがまた楽しい。
これを作るのに日曜の朝お父さん達に呼びかけました。 すると8人も来てくれました。
あっという間にできたゴムチューブの蜘蛛の巣に一緒に来た子ども達が群がったのは言うまでもないことです。
子どもの柔軟な頭に同調すれば 世の中にはタダでも相当に価値のあるものがたくさんあるのです。
その目利きになることができるかどうかが幼稚園の先生たちに問われると言うわけです。
2008.9.1「 君達が大きくなるために大切な言葉 」 (呑竜幼稚園の保育のことば)
君達が大きくなるのに大切なこと
それはまず 居心地 のよい 家族
誰からも 「愛されているよ」 という 安心感
私は 「いろんなことができるよ」 という 自己肯定感
そして私には 「友達がいる」 という 連帯感 ・ つながり
それらがある 季節感 のある アットホーム な 共育 の場所が幼稚園。
どの子達にも 自然体験・本物体験・伝統・文化・冒険 そして ドラマ を プレゼント してあげたい。
時にはちいさな 怪我 とおもいっきりの 喧嘩 も
その中で 自立 と 思いやり の 芽を育てる ことができるのです。
身体力 と 良く働く手 の伴う 好奇心 は 創造 の源
たとえ入園までは 一人でできなくとも
わがままばかりの赤ちゃんでも あるがまま に 受容 し
微笑みに満ちた 慈愛の眼差し と、限りない 信頼の励まし があれば
世界中で愛され、そして必要とされる 平和=ラブ&ピース の人となれるのです。
そうすれば 多様性 を尊重できる 国際人 として 地球単位 でものが考えられる人にきっとなれる
長い人生 の中では よく話し ・ よく聞き ・ よく笑って 欲しい。
そして自分以外の人に思いを寄せる 想像力・イマジン をポケットにいつも持つ。 自然を感じ取れる センス オブ ワンダー も片方に入れて欲しい。
もったいない と思える エコロジー のこころも詰め込めればなお良い。
絵本 や 物語 の世界に遊ぶ楽しさは至極のものだ。
これは君達の特権でもある。 これを楽しまない手はない。
君たちの育ちは スロー でいいし誰にも 似てなく ともいいと思う
そんな 一人ひとり が「愛される人」となるための土台づくり。
それが呑竜幼稚園です。
それを君達の お父さんやお母さんと一緒 にすることを 約束 したい。
呑竜幼稚園 小林研介
2008.8.1 「 正義の味方 」
呑竜幼稚園の運動会は毎年テーマを持って行っておりますが
今年の運動会のテーマは「正義の味方」としました。
私の子どもの頃の「正義の味方」と言えば、赤胴鈴之助と鞍馬天狗がかすかな記憶で、
怪傑ハリマオー、そして鉄腕アトム、鉄人 28 号と続きます。
まさに勧善懲悪の世界であり、悪いものをそのヒーロー達がやっつけるストーリーに
はらはらしながらもいつも痛快感を味わっておりました。
昨年の世相を現す漢字が「偽(いつわり)」であったことは記憶に新しい事でありますが、
ほんとうに世の中が なにか誤魔化したり、職務怠慢だったり、また自分勝手な言い分を押し通したりしています。
最近の世相は「正義」つまり人としての行うべき道理はどこに行ってしまったのでしょうかという困った状態です。
たぶんに「正義の味方」という言葉にはノスタルジックさが漂います。
しかし今こそ正義という言葉に表わされる生き方が必要な時はないような気もします。
大人が正義を示すこと、世の中には勝ち負けや損得ではない価値基準があることを子ども達に示したいものです。
昔はよく「お天道(おてんと)様は見ているよ」と年配者から教えられました。
今思えばお天道様とは実は自分の中にある正義のことをさしているようです。
もしそれなくして行動するならば、人は暗闇の中の放浪者ということになるのでしょうか。
それは御免こうむりたいものです。
2008.7.1 「 幼な子にとっての布施奉仕 」
布施という言葉は、お坊さんに対するお礼のことのように思われています。
実際、ご法事やお葬式のときにお坊さんに「御布施」と書いてお金を渡しています。
ですが、もともとの意味はもっと広いものです。
広辞苑などで布施の意味を調べますと、与えること。ほどこし。喜捨。恵むこと。
という説明があります。
奉仕と言う言葉はそれに比べて分かりやすいと思います。
奉仕活動などといって善意に基づいて誰かのために尽くすことの意味です。
布施も奉仕も誰かのために何かすることというわけです。
では幼児は誰かのために何かすることが出来るのでしょうか。
だって、まだ自分の事さえ儘ならぬ存在でしかないのですから、布施や奉仕などできるはずないと思うのは当然のことでしょう。
私は誕生会で子ども達にお誕生の絵本を毎月プレゼントします。
よくある市販のものですが、先生や保護者の方がメッセージを書き込み、写真や手形を押して、世界で一つの大切な絵本となります。
子ども達に渡すとき 「おめでとう」 と言いますと、ほとんどの子が「ありがとう」と答えてくれます。
そこですかさず言う言葉は 「うれしいな」 なのです。
すこしオーバーに 「うれしい!!!」 と言うようにしています。 するとびっくり顔をしながらもニコっと笑ってくれます。
あなたの 「ありがとう」 という言葉は私をこんなにも嬉しくしてくれるのだよ ということを伝えたいからなのです。
園長の演技?!は時に大切だと思っています。
要は子ども達に 「ありがとう」 という言葉を覚えさせるのでなく、「ありがとう」 という言葉はこんなにも人を喜ばせることもできるのだということを伝えたいからです。
幼稚園の7月は親切にされると嬉しいことも、園の生活の中でわかってくる頃ですね。
子ども達は七夕飾りの作り方を教えてもらったり、お泊り会で一緒に寝ようねと約束しあったり、砂場のジョーロを代わりばんこに使ったりしているでしょう。
そんな友達との交流の中に 「嬉しいなあ」 という実感が溢れているのがこの時期なのです。
だから優しい眼差しや温かい言葉、親切な行いが友達の中にいかに大切か分かってくれるはずです。
2008.6.1 「 支えられる至福
」
人間というものは多くの人に支えられて生きているものだという事がわかるようになるのは、ある程度の時間が必要なものです。
大体において有能感に満ち溢れた若き頃はそんなことはつゆ考えてもみないで、地球の中心に自分がいると思って疑わない人が多いのではないかと思います。
それはそれで悪い事ではないのでしょうが、長い一生の間にはそうもいかない事が必ず起こってくるから不思議です。
不思議というよりそれは避けられない人の宿命のような気が昨今はしています。
できるならば人に悩み事を相談などしないで、揚揚と生きていければそれにこした事はないのですが、仮に深き悩みがあったとしてもそれは落胆し嘆き悲しむばかりのことではないと思うのです。
なぜかというと人間好調の時には人の有難さを感じることなく、自分の力のみで物事が進んでいるかの錯覚に陥っています。
しかし行き詰ったり、迷ったりした時の人の支えは本当に有難いものだと感じられます。
何気ない言葉にジンと来たり、力づけられたりしますね。
電話をする人がいるならそれもすばらしい事です。 一緒にお酒を飲んでくれたり、気晴らしに付き合ってくれる人もまた支えです。
人は自分の置かれている立場・状況によって見えないものが見えてくるというのも事実だと思います。
暗闇の中では一本の小さな蝋燭の光だってまぶしいくらいに道を指ししめしてくれることがあります。
悩み深き人は絶望をのみ感じるのではなく、その中で人の支えを求めればいいのです。両腕を広げ支えて下さいと言う事を何、はばかることはないのではと思います。
あなたの周りにはそうした人が必ず居ます。そう居ますとも。
人の支えがある有難さを、人の支えの至福を味わう事ができるのも人間なのです。
そうですとも、人は人により生かされているのです。
2008.5.1 「行くべきか 行かざるべきか 」
春に「5月病」なんて言葉が流行った時がありました。
今は「3月病」つまり「花粉症」が蔓延していますね。
さてこの「5月病」ですが、これは新しく入学や就職した人たちが連休明けくらいに陥る軽い鬱状態のことを言いました。
大学生などにも良く使われていて、 東京に出た大学生が実家に戻ってしまっているなんてこともあったようです。
幼稚園にもこの「5月病」はあります。
と言うか、連休明けにとても元気だった子が幼稚園に行き渋るようになったりする状態をさしています。
ただ大人と違うのは、「鬱」なんていうことでなくある意味ではそれは自然な姿だということです。
少し説明すると、幼稚園に入った子達はそれなりに緊張とストレスのある生活を送っています。
園は楽しいけれどお家とは違う事は当然です。
お弁当だって「いただきます」をするまで少し待たなくてはなりませんし、お水を飲むにしても並ぶことだってあるのですから。
何かの拍子に押されてしまって転んだり、ブロックや粘土を脇から取られてしまうなんてこともあります。
面白いけどイヤなところでもあるというのが本音でしょう。
そこに大型連休が入ると、お家の良さがひときわ感じられるのです。
我が家というのはこんなに良い所だったのかと再発見するわけです。
優しいお母さんが居てくれて、ちょっかい出す子はいない。ご飯も好きなときに食べられるし、勝手知ったる静かなところだ。
「僕はなんであんなところに行っていたのだろう?」とむくむくと子どもなりの疑問が湧き起こります。そこで登園を渋る姿が見られるというわけです。
ですから、仮に「5月病」に幼児がなっても、その子のお母さんは胸を張って鼻高々で良いのです。良い家庭を築いてきたという証拠なのですから。
親戚やお友達に自慢のメールを一斉送信しても良いくらいです。お赤飯を炊くくらいはしましょう。
ですから対応はひとつ「いい子ね。ずっとお家にいましょう」と言ってあげてください。でも子どもはそう言いながらも園のことが気になります。
「一緒に行くから行ってみようか」と言えば、ほぼ100%行くと言うでしょう。
さてそこからは幼稚園の仕事です。家ではできない裸になっての砂や水遊びを用意したり、遠足だって企画しちゃいます。
お歌を歌いながら新作の手遊びを披露するのは当然ですね。庭には迷路のような線がひかれぐるぐる回れますし、聞こえる音楽だって楽しそう。
あの手この手で幼稚園もすごく楽しいよとアッピールしますからご安心下さい。
で、子どもは悩むわけです。「行くべきか行かざるべきか。それが問題だ」とばかりにね。この悩みが子どもを成長させるのです。
そして、お家の良さと園の良さを両方知った子は、4月より一層大きくなるのです。
ですから、くれぐれもご心配なく。
2008.4.1 「 桜の季節 」
春、桜満開の季節です。
日本人はこの桜という花が本当に好きだと見えて、
お花見と称してあちらこちらに出かけます。
過日、東京に研修に行った折も、いち早く咲き始めた桜の花を
携帯電話で写している人を、いたるところで見たものです。
桜はまさに春の訪れを感じる季節の花であると同時に
別れと出会いの花でもあります。
卒園式では、立派に成長した年長さんたちが呑竜幼稚園から巣立ちました。
過ぎてしまえばあっという間の3年間でありました。
子どもたちのみならず、この園を支えていただいたご父母の方とも
ひとつの区切りと思うと、本当に名残惜しい気持ちでいっぱいです。
そしてあと数日もすれば、希望とちょっぴりの不安を背負った子どもたちがこの園の門を たたきます。
遊具のペンキを塗り替えたり、砂場の砂を足したりと、4月の保育を思い浮かべながら、お友達のお迎えの準備が始まります。
これらのことは、変わらぬ毎年のことではありますが、
そこにはその年、その年ごとの緊張と期待があるのは言うまでもありません。
また戻ってきた桜の季節。
新鮮な多くの出会いがきっと今年もあるでしょう。
「始まりは桜から」
これも日本人が桜を愛する理由なのかもしれません。
2008.3.1 「 園の意気込み、保育者の意気込み 」
今年も仕事柄全国の幼稚園を訪れる機会がたくさんありました。
立川の藤幼稚園、いわきのほうとく幼稚園。愛媛、高松、広島、山形、宇都宮の幼稚園・保育園といろいろな園を観させていただくと本当に参考になることがたくさんあります。
幼児教育は「環境による教育」と言われ、園の建物も園庭の木々や飼っている動物もみな 子ども達にとっての大事な教育的な刺激となっています。
枝垂桜の古木や江戸時代の大仏さま、裏山の急斜面も金木犀(きんもくせい)の香りもが幼な子の五感をゆすぶり大脳を覚醒させてくれるのです。
ですからその環境をどのように整えるか、いや創って行くかというところが幼稚園教育にとってものすごく大切なわけであり、
いろいろな園を訪れ観せて頂くと、その園の教育観というかもっとストレートに言うと「意気込み」が伝わってきます。
私は幼稚園には、とりわけ私立幼稚園にはこの「意気込み」というものがとても重要であると思います。
その意気込みは園環境のみならず子ども達がする活動の中にも現れてきます。
それは保育者が単に子ども達に何かをさせているだけでなく、どのようなことを狙って、どのように経験させているかということを大事にしているというところであります。
絵を描くということをひとつ例に挙げますと、各自に自由画帳を与え、クレヨンで好きなものを描いている園はよく見られます。
とりあえずうちの園では絵を描いています(描かせています)というわけです。
しかし庭に大きな紙を貼りたっぷりの水彩絵の具で裸になり描かせる(時には水鉄砲で絵の具を噴射している)園はあまり見られません。
はたまた砂浜や雪原で長い棒で思いっきり線を描こうなどという活動もめったにお目にかかりません。
しかし仮にこうしたことをさせる人には絵画的な表現の前の段階として、先に上げたような「芸術は爆発だ」のような自由な自己表出の経験がその基盤として重要であるという教育的信念があるわけです。
また、石垣の上に櫓(やぐら)あり、小さなクラスの子が年長児に憧れ必死になってよじ登るという環境の園を見たこともありますが、
石垣とはまた古風だが、魅力的かつ挑戦的な遊具を用意したものとその意気込みに脱帽した覚えがあります。
今、さよならコンサートに向けて子ども達は、歌や合奏に親しんでいます。
呑竜幼稚園のたくさんの思い出が綴られた8番まである長い歌を歌うときに私が「たくさんのことを一つ一つ思い出しながら歌ってね」と言うと練習の時でありながら感極まって泣き出す子がいるのです。
歌とはただ歌えばいいものではありません。
元気を沸き起こす歌にはそれなりの歌い方があるでしょうし、思い出の歌にはそれなりの心情を共にするべき心の持ち方が必要でしょう。
リズムやメロディーの正確さを求めることも年齢によっては大切でしょうが、ここで子ども達の中に育てたい事は何であるのかを常に考えることが大切です。
もう一度言いますが、幼稚園教育とは子どもに何かをさせればいいだけのものではありません。
うちの園では子ども達が絵を描いています。
歌を歌っています。
日光に行きました。
綱引きしました。
うさぎやアヒルを飼っています。
じゃが芋植えましたとばかり並べたとしてもそれだけでは意味がないのではと思います。
その活動をしていることに安直に満足するだけでなく、その中でこの子に何を育てたいのか。
だとすれば何を用意してあげ、どんな言葉をかけるのか、他にも違うやり方はあるのではといった猛烈なる内省が共に生きる保育者には求められるのです。
そうした意味において意気込み溢れる園。
そして意気込み溢れる保育者集団が今こそ望まれる時はないと考えています。
2008.2.1 「母よ あなたは強かった」
私はこの時期には大学生の試験問題の採点という仕事が待っています。
現在2つの短大と1つの専門学校で250人くらいを教えていますので 、その採点も結構な時間を要することになります。
しかしどの学生達も一生懸命に試験を受けますので、できるだけ真面目に採点するのはこちらの義務と考えております。
後期は1つの学校で「人間関係」という保育の分野(領域)の話(講義)をしています。
内容的には「子ども達は生まれてからいかなる人間関係を構築しながら大人になっていくのか、その際大きくなる中で何が大切で、保育者としてはどう接するのか」
なんて話をするわけです。
そして試験では当然試験らしい問題をいろいろと出すのですが、毎年最後の問題として「あなたが影響を受けた人は誰で、どんな内容か」という私的体験談を書いてもらっています。
今、120人分を読み終えたところですが、やっぱり一番多いのはなんと言ってもお母さんなのです。
お父さんというのも無いことは無いのですが、お母さんに比べて10分の1くらいでしょうか。
お母さんの次は幼稚園、保育園、小学校、中学校の先生という先生群が続きます。友達や先輩が3番手だと思います。
たまにバイト先の店長、またマザーテレサ等の偉人が見られ、間違っても政治家は出てきません。
20歳の女子学生が大多数なのですが、人間関係の基礎はやっぱり自分とお母さんとの関係なんですよね。
幼稚園や保育園で保育者になりたいと希望する学生は、やはりいい人に出会っています。
母しかり、先生しかり、友達しかりだと思います。愛された経験が子どもの世話をしたいそんな仕事に就きたいという原動力になるのかもしれません。
幼稚園児や小学生を持つお母さん方、いやもっと大きくなったとしても、あなたとお子さんの関係性はほんとうに一生ものなのです。
どうぞそのことを忘れないように。
そして悔いのないようにしてください。
これが読み終わっての私の感想です
2008.1.1 「おてんと様は見ている 」
年明けましておめでとうございます。
干支も今年は子(ねずみ)にもどり新規一転となりますね。
昨年一年は様々な偽装が目白押しで 「偽」 が昨年をあらわす漢字と報道されていました。
「分からなければいい」という風潮が世の中に万延した証拠だと思います。
このことの原因は勿論多様であるのですが、1つには「おてんと様は見ている」という言葉が使われなくなったからだと思います。
おてんと様とはお天道様、つまり太陽のことであります。
「人は見ていなくても、天にある太陽はあなたの行為をしっかりと見ていますよ」という戒めの言葉であります。
子どもにはこれは相当な効果のある言葉です。
おてんと様はほとけ様とも置き換えることができます。
毎週月曜日の朝の礼拝の時に、ホールのお釈迦様にご挨拶をするのですが、私はお釈迦様がみんなのことを今週も見守ってくれますよと話します。
見守るとは良いことも、悪いことも見ているのですよと言います。
そしてお釈迦様はウルトラマンくらい大きくもなれば、ポケットに入れるくらい小さくもなっていつも傍にいますと付け加えると、ポケットを覗き込むのが子どもです。
小さい子には本当に話す甲斐があるというものです。
こうした思いを残念ながら日本の多くの大人達は忘れてしまったかのようです。
一昨年ころから国家の品格という本が売れ続けていたようですが、
品格をもった人間が少なくなっているからこそのベストセラーとも言えそうです。
外からの規制でなく自分自身の中にある規範を持って一貫して行動する事ができる人が
品格をもった人なのではないでしょうか。
言うまでもなく「分からなければいい」とは外部規制です。
ですから子ども達に「○○に叱られるから」と注意するのではなく古風かもしれませんが「おてんと様が見ているからね」と言ってあげたいものです。
そして行く末には自分自身の中に確固たる行動の規範を持たせたいものです。
子どもの中に育てるべきものはたくさんありますが、何ができた、何が分かるといった目に見えるものだけを求めてはいけません。
初日の出を拝む意味もこんなところにあるのかもしれません。